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1998年 12月
連載140回

みんな平均化されてきた
パソコン時代の楽しみ方模索

600ドルパソコンセット
ひとり1台パソコン時代


 やっと冬がやってきましたね。1ヶ月ほど前にオランダに出張に出かけたとき、その寒さに驚いたものでしたが、今年の日本の冬の訪れは奇妙に遅かったようです。こんな暖かいままに師走がやってくるなんて想像もつかなかったのですが、急に冷え込んで冬を感じさせる気候になると、「あっ、もう後一月で今年も終わるのだ」という実感がこみ上げてきて、なぜか気持ちが焦ってきます。みなさん、年の瀬はすぐそこに迫ってきていますが、いかがお過ごしのことでしょう。景気動向が思わしくない今日この頃、今年の年末は皆侘びしい思いを抱えているのではないでしょうか。小渕さん、何とかして下さいよ。

1998年ってどんな年?


 さて、愚痴ったところで仕方がありません。私たちは私たちで逞しく生き抜く必要があるわけで、私も先物取引で大損をしたことはさらっと流して、今月は1998年の総括でもしてみましょう。
 本当に人の記憶の脆うさというか、忘れっぽさというか、単に1998年を振り返ろうとしても、自分の記憶だけでは思い出すことができません。記憶の風化速度が加速度的に速くなっているように思います。例えば、長野オリンピックは今年の始めだったにもかかわらず、私の記憶からは今年の印象ではなくなってきています。パソコン世界にしてもそうです。相当に強烈で、しかも継続的であるのならその記憶は長く留められているでしょうが、一瞬の花火は次の日には記憶の彼方に飛んでいってしまいます。それだけ私たちは刺激的で、忙しい日を過ごしているのでしょうね。

キラーソフトが無くなった時代


 最初の話題は「キラーハードやキラーソフトが無くなった」時代について書いてみましょう。今年もパソコン関係で話題になったものもいくつかはありました。それについてはまた後で書くにしても、基本的な思いはパソコン世界に「夢の王様」が居なくなったと言うことです。いや、現実的にはマイクロソフトやインテルが独禁法に問われている時代ですから、現実的な意味の「王様」は存在するわけですが、パソコン創世記のあの熱狂的な思いで見つめた「カリスマ的王様」は居なくなったと言うことを話しているわけです。パソコンの市場そのものが小さくて、その可能性というのがまだまだビジネス世界では認知されていなかった時代においては、突如として現れた風雲児が時代を席巻したわけですが、パソコン市場がこれだけ大衆社会に普及してくると、ちょっとした革新的なことよりも安定した使い心地の方が優先されるようになったのでしょう。古くからパソコンと戯れていた人たちが声を揃えて「つまんない時代になった。何か面白いことはないのか」と言い出してきています。これが私の今年のパソコン世界の感想でもあり、実感でもあるわけです。

みんな平均化されてきた


 もう少し具体的に語ってみましょう。「キラーハード」とか「キラーソフト」というのは「9801」と「1−2−3」「一太郎」とか、「ファミコン」と「ドラクエ」と言ったような「唯一機械」と「唯一ソフト」のコンビネーションです。憧れのマシンとどうしても家で走らせてみたいソフトであり、そこには「夢」と「見栄」があったわけです。確かに現在においてもPentiumU450マシンはそこそこの夢ではあるでしょうし、「Windows98」とその上で走るマイクロソフトのアプリケーションは市場的には売れているソフトということになるでしょうが、「夢」や「見栄」とはほど遠い存在になってしまったといえるでしょう。市場の中においてあまり位置を占めていない「iMac」の方がよほど「夢」の要素を持ち合わせていると言っても過言ではないでしょう。
 この話はかって何度も書いたことがありますが、パソコンの歴史というのはわずか20年です。この短い間にあまたの伝説が生まれては消えていきました。同時代にパソコンに魅せられたメンバー達は、それを仕事にする人たちも生まれ、また相変わらずユーザーとして付き合ってきた人たちもいます。それを仕事にした人の中ではとてつもなく成功した人もあり、失敗した人も出てきました。周辺で眺めている人たちにとっては、それは魅力的でもあり、誘惑的でもあり、そして足を踏み出さなかったことに胸をなで下ろしていることでもあるでしょう。その位この業界は短い期間に、変遷は大きなヤマとうねりを生じて、成功と失敗が折り重なるように生じてきたものです。それなのに、何故周辺で見守っていた私にとってもパソコン世界は魅力的であったのでしょう。そして今魅力的ではなくなってきたのでしょう。これが私の1998年の総括の第一歩です。

「おもちゃ」と「計算機」


 私の心はいつも二つの方向にぶれ続けてきています。ひとつの方向はパソコンが相変わらずおもちゃであり続け、常に玉手箱のような存在であることであり、もう一方では高度な処理機械であるパソコンが社会的に認知されると言うことです。一時期には「こんな面白くて、魅力的なおもちゃ」と騒ぎ、一時期には「ビジネスでも有効だ」と高説を垂れてきたわけです。今、パソコンが日本国内だけで500万台近い出荷数を誇るとき、今更「パソコンはビジネスチャンス」だとは言い難くなり、もはや「当たり前」と言うことになってしまったわけですから、パソコンのおもちゃであるという一面をもっと強調することが必要になってくるわけです。ところがこの「おもちゃ」であるという一面がだんだん薄れ始めてきているからこそ、私の熱が希薄になってきているのでしょう。
 「最近パソコンは面白くないな」という人たちの呟きは、結局この「おもちゃ」の局面の希薄さにあると言ってもいいのではないでしようか。では、この局面は本当に希薄になってきているのかと言えば、そうとばかりは言えません。見方によってはまだまだ拡大してきているともいえるしょう。それなのに、「希薄化」のイメージが生まれてきているのはパソコンの可能性の「拡散」にあるといえるでしょう。パソコンの可能性は留まるところを知らないとも言えるけれど、その可能性の方向性というのはもはや予定調和の中に感じられてしまうと言うところの悲劇なのかもしれません。相当新しいものが生まれてきても、それを正当に評価できないほどに私は擦れてきたのかもしれないのです。
 もう一度素直な気持ちを持ち直してみよう。そうすればその「可能性」の若々しい芽を愛でてやることができるかもしれません。
 私が今年パソコン関係で購入したものはすべて小物ばかりでした。思い出す物からあげていくと、ザウルスポケット、CD−R、カラーポケット、mpman、USB対応のスキャナ、そんな物くらいです。強いてあげるとすれば子供達のパソコンをリニューアルしてやったくらいでしょうか。
 「どうしてPentiumU450マシンを購入しないのか」と問われても返事ができません。購入する金がないわけではありません。もうひとつ気持ちが動かないのです。「新しい物に対する好奇心が失われてしまったか」と問われて、「確かに昔ほどには好奇心の強さは少なくなったと思うけれども、失ってしまったわけではない」と思うのです。「パソコン新機種の登場サイクルがあまりに激しすぎて追いかけるのに疲れてしまったのか」という問いかけに対しても、「それを言っちゃあ、おしまいよ。そんなことは昔から承知よ」と答えてしまいます。つまりはPentiumU450マシンそのものに魅力を感じていないからなのです。もう来年には1GHzのマイクロプロセッサが登場するという時代です。x86プロセッサの動作周波数にしても600MHzには突入することでしょう。それなのに心が躍らない。昔、8086から80286を手に入れたときの興奮、アメリカから486マシンを輸入したときの興奮、Pentium90マシンを触ったときの興奮というものが生まれてこないのです。多分、これはソフトウェアとの関係があるのでしょう。生まれて間もなかった当時のパソコンハードの性能はまだまだ幼く、それに対して、パソコンの可能性を信じてソフトウェアを作り出す想像力はハードウェアに対して過酷な要求を突きつけていたわけです。ハードから始まったソフトウェアは、生まれるやいなやハードを追い越してしまったのです。8086から286時代においてはグラフィック描写速度はCPU速度そのものの反映であったし、486マシンは漢字ROMを放逐してWindows時代を幕開けさせたし、Pentiumマシンは動画時代を当たり前にしてきました。しかし今、次のソフトウェアに望むものというのが見えてきていないことが問題なのです。インターネットにおいてはCPU速度よりも通信のインフラの方がネックとなっていて、ハードウェアは486でも十分とも言えます。ビジネスソフトはもちろん、ゲームでさえも最速機械でないと満足できないと言うことは少なくなってきています。残るところはDVDのソフトウェア再生しか見あたりません。

ハードがソフトの夢を追い越した時


 どうもパソコンは大きな曲がり角にきているようです。ハードウェアの高速化の延長線上に夢見てきた「私のパソコンの夢」は挫折したようです。雑誌等ではまだまだ「パソコン自作とクロックアップ」などの記事が蔓延していますが、そこまでやったとしたところで大勢に変わりがあるじゃなしと思ってしまう私がいます。モバイル信ちゃんが最先端のハードを追いかけるのではなく、「モバイル」というテーマでパソコンを追うように、hillsさんが「AV」というテーマでパソコンに切り込んでいるように、パソコンユーザー一律の「最速」=「見栄」という時代は終焉したようです。
 こんな時代を反映して登場したのがソニーの「VAIO」シリーズであり、アップルの「iMac」といえるでしよう。カタログスペックの競争をしたところでなんになる、これからのパソコンは見栄えであり、持っていたいという願望を与えるスタイルであると登場したわけです。ソニーに言わせれば「VAIO」シリーズはスペック的にも従来のパソコンとは異なる思想を持っていると主張するのかもしれませんが、VAIOノートがユーザーと他社に与えたインパクトはそのスタイルにあります。「iMac」に至ってはその性能はインターネットに即繋がりますよと言うだけのものですが、若い女の子達にパソコンを持ってみたいという夢を与えてくれるスタイルです。
 私がパソコンにおいて唯一正しいと思ってきたスペックはここでは無くなってきているのです。うーん、これは私が思っていた「パソコン道」とは違うと叫んでみても、仕方がありません。どうやらパソコンユーザーというのが普及するにつけて、昔は主流であったところのマニアチックなパソコンユーザーというのは隅っこに押し寄せられてきたようです。

液晶ディスプレイ・デジカメの台頭


 デスクトップパソコンにしてもそうです。マニアチックなユーザー達は未だに大きな箱に魅力を感じ、拡張性がどうの何たらがといっていますが、今年の秋口に発表されたNECと富士通のデスクトップでは、小さな筐体に液晶ディスプレィというのが新しい流れになっています。これはノートパソコンが占めた一角を担おうと企画されたものでしょうが、これだけ液晶ディスプレィが安くなってきた今日、当然の流れでしょう。私は未だに液晶ディスプレィというのがなじめないのですが、机の上に大きなモニターが占有するよりは薄型の液晶ディスプレィならずっと机が広く使えます。普及型が15インチにもなった現在、画面は十分な広さになっています。カラー液晶が登場してからまだそんなに年月は経っていないのにと思うと感慨深いものを感じます。
 これはデジタルカメラについても言えることですね。つい数年前カシオから登場した普及タイプのデジタルカメラはインターネットブームと相まって、あっという間に社会的認知を受けてしまいました。当初、普及型で35万画素数であったデジカメ戦争はとうとう100万画素数時代に突入してしまいました。プロに言わせればまだまだの世界でしょうが、私たちが扱う画素数としては100万というのはすごく大きすぎると思うのですが、トリミングが得意な人には結構重宝するカメラといえるでしょうね。今年、私も最近のデジカメのカタログスペックを見る度に心が動いたものですが、とうとう購入しませんでした。私が今デジカメに望んでいるのは、画素数の拡大ではなく、電源を入れてから撮影に入るまでの初期化タイムの縮小です。アナログカメラの馬鹿チョンタイプほどの簡便さが望まれているのではないかと思うのです。100万以上の画素数の処理というのは案外大変なのですよ。撮影した全体像をトリミングによって切り捨てて使おうとする人たちには重要でしょうが、私のようにそこまでの処理を考えないものにとっては、処理速度こそが欲しい機能です。
 アメリカではIBMが今年のクリスマス商戦に600ドルのパソコンセットを売り出すと言うことです。2台目、あるいは子供達へのプレゼント用というふれこみですが、弱小メーカーではなくIBMが発表したと言うことに驚きを感じています。そのスペックはWindows98を走らせるには十分なもので、パソコンも一人に1台という時代がきたようですね。もっともマニアユーザー達は一人で何台も持っている時代ではあるのですがね。


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